ボタンの発明 ≪ older

newer ≫ 前後と左右

君の瞳にコピーしてる

著作権の話がしたいんじゃないんだけど、このたぐいの論議がフクザツになっているのは、同床異夢というか、違うものを見つつ「著作権」と言うひとつの言葉を使っているせいじゃないかと感じる。著作権の話は本題のマクラでしかないですけど。

1)すでに製品として流通しているものをコピーし販売、利益を得る
:CD、コンピュータソフト、ブランドバッグなど、いわゆる海賊版

2)商品として流通していない(経済市場にのってない)、芸術作品をふくむ制作物を、無断使用・改変し(あるいは自作と偽り)、あるいは商品化する。

これ大雑把に「人格権」と「財産権」の問題になるかなと思うんですが、このエントリの本旨じゃないのでこのへんをご参照(404 Blog Not Found「著作権の二つの顔-人格権と財産権」)。

≫≫

話ついでに、たとえば私が渡辺淳一さんの小説をコピーして、テキストデータでネット上で公開したり、製本して販売したりするとします。これは(1)ですよね。渡辺淳一さんや出版社の経済活動を妨げます。
今度は、私が渡辺淳一さんの小説を”自分の作品”だとして販売したとします。パクリ、盗用とかです。ただあんまり影響はありません。渡辺淳一さんの知名度・既知度は私とは比較になりません。盗作なので中身はまるまる同じでも、私の名前を冠して発表してしまうと売れないのでパクっても利益になりません。
仮に私の小説を、渡辺淳一さんがパクって発表したら逆です。それなりに売り上げが見込めるでしょう。ただこの場合も私にあまり損害はありません。まず私の小説は商用に流通してないので、そもそも利益は出てません。じゃあ、私が私の名前で小説を発表したとしても、まず売れないはずなので利益は出ません。渡辺淳一さんが私の作品をパクって発表するか、私が渡辺淳一さんの名前だけ借りて自作を発表するか、どちらかが利益を出すのに近道です。ただ後者のほうは著作権とは関係ないですね。

なんで渡辺淳一さんの名前を借りるかと言うと、渡辺淳一さんのほうが有名でブランドイメージが確立してるので、消費者に信頼があるからです。まぎらわしい商標のたぐいです。
(参照:痛いニュース(ノ∀`):スターバックス「商標パクったろ」→韓国裁判所「韓国じゃスタバなんて有名じゃないから却下」)l

著作権の議論を見てると、だいたい「自分の作品だと認めろ」と言う感情的な比重が大きそうなので、有名作家の名前を借りて自作を発表するケースはそもそも埒外です。売れなくてもいいから自分の名前で世に出したいと言うエゴの部分でしょうか。

べにぢょのらぶこーる「はてなブックマーカーがドラえもんで良かった。」

人間には多かれ少なかれ承認欲求ってのがあって、それは自分の作品さえ認められればそれでいいというものではないと思うのです。
”私の書いた作品が評価されたことによって私自身が認められたのが嬉しい”んじゃないのかな?


で、この稿は著作権の話じゃないので、唐突ですが話をもどします。
ブランドバッグのコピーの場合、コピー製品は「本物」より品質が劣ります。もし本物と同等の品質だったとしても、「ブランドを持つこと」がステータスなんですから、ニセモノを持っている時点でアウト(価値がない)です。
工業製品の場合、アジア各国でソニーやホンダの類似品が出回ってますが、こちらは「使用に耐えさすればいい」ので、ニセブランドでも消費者は許容します。
CDやコンピュータソフトとなるとデジタルデータなので、「海賊版」といってもホンモノと寸分変らないわけです。有史以来、原本と複本には物質的に違いがあって、版画だろうとメーヘレンの贋作だろうとフィルムのデュープだろうと、オリジナルとコピーの関係でした。
デジタル以前は、どんなによくできたコピーでも、オリジナル≒コピー であって オリジナル=コピー ではなかった。デジタルが「オリジナル=コピー」と等価関係を発生させたのですが、等価になった段階で、正確にはオリジナル対コピーという関係は消失して、両方ともオリジナル、あるいはコピーだとも言えるようになりました。もうオリジナルという概念そのものが成立しにくいんですね。

以前、私のご近所に職業彫刻家のかたが住んでいました。私はそのころ Adobe フォトショップやイラストレーターで制作物を作ることが多くなっていて、写真や画なども次第にデジタルに移行していました。(参照:「ものより重いで」)彫刻家の彼女はデジタルでの制作物をとても嫌っていて(彼女はデザイン系のアプリはだいたい使いこなし、自身のウェブサイトも更新してましたが)、デジタルは作品とは呼べない、ウェブ上で発表しているものは情報(告知)であって作品じゃない、と主張していました。「オンリーワン」と言うオリジナルの概念が成立しないからです。

さて、だいぶ大回りしましたが本題です。
写真のフィルムは、複製(何枚でもプリント)するのに優れているメディアでした。しかし複製能力という点では、デジタルカメラのそれにまったく劣ります。しかしデジタルにない「オリジナル」の概念を残しています。何枚プリントしようが、デュープを撮ろうが、オリジナルのフィルムは間違いなくひとつです。
ただ複製が容易・簡便なだけに、「オリジナル性」の部分でポラロイドよりは一歩劣ります。ポラロイドがいまだに根強く小ブームが起きるのは、撮ったその場で画が見られること(その能力ならデジカメの方が高い)にまして、現像されたポラロイドはまぎれもなく「オンリーワン」だからではないでしょうか。フィルムのように大量に複製をプリントすることが簡単にできません。
フィルムはそれ自体がオリジナルですが、一般的にプリントした形にしてようやく認識されます。リバーサルフィルムをライトビュワーに載せて観賞するということはほとんどないでしょうし、ましてネガフィルムだと観賞してもあまりおもしろくありません(何が写っているのかよくわからないし)。フィルムはプリントという複製化をしないと見ることができないフォーマットだったのです。

オンリーワンのオリジナル性ではポラロイドに劣り、複製化能力ではデジタルに劣るフィルムが生き残るには、画質がどうこうというよりも、かろうじて備えているその両面性をアイデンティティにしていくしかないかもと思いました。

[参照]Harukiya Archives「いきのこる」

/ 君の瞳にコピーしてる (update:May 6, 2007)

コメント (2)

なるほど。今はたくさんの写真ブログがあったりするので、オリジナル性というのはあんまり意識していませんでした。

私がフィルム好きな理由のひとつに、撮る前も撮る後もその場では写真の確認ができないというのがあります。写真を撮る時も現像ができあがってきた時も、あの緊張感とワクワク感(そしてしばし失望感)はたまりませんっ。そして実際の写真が確認できた時の、記憶がふわーっと遡る感じ(と言ってもせいぜい数日かそこらですが)、これはフィルムならではだなーと思います。

しぇん:

うわ! コメントもらってる!(しらじらsy)

この稿を書いててあらためて思ったのは、
フィルムってそのものはあんまり見ないですよね。眺めるのはあくまでプリントしたものなんですが、あれはすでに「複製」なんだなあと。

*マルディちゃん、コメンテーター1号ですよ。 MTはまだいじってなくて、コメント一覧をつけてないんですけど、そろそろ付けなきゃいけませんね。

Powered by : Movable Type 3.33-ja